仏教の教え-四門出遊

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「苦」の人生をいかに生きるか。

四門出遊(しもんしゅつゆう)

釈尊の出家の動機としてよく語られる「四門出遊」(しもんしゅつゆう)という説話があります。

釈迦族の王子として育ち、何不自由のない暮らしをしていた若者がなぜ出家したのでしょうか。

釈尊こと悉達多王子は、幼くて母親を亡くし、ものに感じやすい考え込みがちな少年でした。
ある年、年中行事の鋤き入れの式がありました。

王子は、父の淨飯王に連れ添って、それを見ていると・・・。
鋤きで掘り起こされた土の中にいた虫を、鳥が舞い降りてきて食べてしまったのです。
その光景は、何度も何度も繰り返されました。
王子は、いたたまれなくなって、そして思いました。

「一方が生きるために、一方が殺される・・・なんとむごたらしい・・・生きることはすべて苦である・・・」
「そして、それは、確かに現実なのだと・・・、そう、一切皆苦なのだと・・・」


釈尊が物思いに耽って、いまでいう鬱(うつ)の状態になっているのを案じた父が、彼を城外に出して散策させます。


太子がお城の東門から馬車に乗って出かけると、見るに耐えないヨボヨボの老人と遭遇しました。太子は、お供の者に『あれは何者か?』とお尋ねになりました。

お供の者は、答えました。

『老人でございます。すべての人間は、生身であるいじょう、老いの苦しみを免れるものは、ございません』

太子は考え込んで、もう遊びにいくどころではなく、お城へ帰りました。

それからしばらくして、また、外出することになりましたが、東門をさけ、南門から出かけました。すると、道端に倒れてる病人と遭遇しました。太子は、お供の者に『あれは何者か?』とお尋ねになりました。

お供の者は、答えました。

『病人でございます。すべて人間は、生身であるいじょう、病の苦しみを免れるものは、ございません』

太子は考え込んで、もう外出どころではなく、お城へ帰りました。

また、それからしばらくして、外出することになりましたが、東門と南門をさけ、西門から出かけました。すると、遺体を運んでいるお葬式に遭遇しました。太子は、お供の者に『あれは何者か?』とお尋ねになりました。

お供の者は、答えました。

『死人でございます。すべて人間は、生身であるいじょう、死の苦しみを免れるものは、ございません』

太子は考え込んで、もう外出どころではなく、お城へ帰りました。


そのつど、あれは何かと聞きます。


お釈迦様はいい年をして老人も病人もわからないのか、と思う人がいるかもしれません。


でも、質問には二つあります。


わからなくて質問する場合と、自分はよく知っているが相手に理解を深めさせるために聞く場合とがあります。


釈尊の質問はその後者で、
「老」
「病」
「死」
という人生の重大事実を相手に深くわからせるために、そのつど聞いたのです。


 それらを目にして、生きていれば老・病・死の三苦は避けられないのに、誰もそれを自覚することなく日々を無為に生きていることを痛感します。


そして最後に北門を出たときに出家した修行者に出会い、その落ち着いた、清らかな足どりで歩く姿に感動し、自らも出家をしようと決意したといいます。


これが「四門出遊」、後世に生まれた説話です。


二十九歳で家を出たブッダは山林に入り、六年にも及ぶともいわれる凄まじい苦行をなさいました。


「四門出遊」の話の中で、釈尊は北門を出たところで出会った出家者に対して「どうして、このように優雅で、しかも尊い人柄ができたのか」と尋ねるんです。


すると、その出家者は

「沙門でございます。出家の修行者でございます。」
「私もかつてあなたと同じように老・病・死の人生の大きな問題で悩み続けました。
老・病・死の苦悩の解決は他に求めて得られるものではなくて、また瞑想して観念的に解決のつくものでもありませんでした。
自分を正しく支配できるように厳しい苦行をし、努力を重ねる以外に方法はなかったのです。」
と、自分の体験を語りました。

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苦行時代

四門出遊で出家を決意した太子でしたが、王子であるので王の後継ぎをしなければなりませんでした。
しかし、しばらくすると、太子の御妃が羅ご羅(ラゴラ)を出産されました。

後継ぎを羅ご羅(ラゴラ)に任せ、生まれたわが子と産後のお妃と孫出産に喜び慕っている父王を置き去りにして、太子は出家されました。

王になるべき身分を捨て、乞食同然の沙門になられたのです。

これを、ヨーロッパの学者は『大いなる放棄』と呼んでいるそうです。

すべての人を救うため、王位と妻子父母を放棄してしまったのです。

そして、ブッダは出家して、最初六年間、さまざまな難行苦行を行いました。

沙門になられた太子は、もう太子ではなく菩薩となりました。

菩薩は、師をもとめてバラモンの仙人へ弟子入りしましたが、すぐ仙人と同じ境地に達してしまい、もう師はもとめず一人で修行することにしました。ブッダ白身、苦行時代の初期に断息の修行を徹底的に行って、それは『アーナーパーナサティ・スートラ』、つまり『大安般守意経』としてまとめられています。

また、ブッダは断息以外にも、断食をしたり、茨の中を転げまわったり、腐敗していく死体とともに寝たりと、毎日そんなことばかりやっていました。

修行は、食事を一日に米一粒、麻の実一粒等の苦行が主で6年間続きました。当時はそういう苦行をする行者がたくさんいて、苦行林とか苦行山という場所でともに苦行をしていました。

でも、ブッダの目には誰も悟りとか真実の思想に到達した者はいないように見えたようです。

しかし、彼自身もそれを知ることができないまま、ついに身心が疲労し果てて呆然となってしまいます。

そして、このままではまったく無意味であると決断して山を下りるわけです。

羅睺羅(らごら、ラーフラあるいはラゴーラ)

釈迦の実子であり、またその弟子の1人。

釈迦の妻である耶輸陀羅妃が釈迦の出家前に妊娠した子で、釈迦が出家して5年後に生まれたとされる。

釈迦十大弟子の一人に数えられ、密行第一と称される。

また十六羅漢の一人でもある。


釈迦は成道後にカピラ城に帰った際、2日目に孫陀羅難陀(ソンダラ・ナンダ)を出家せしめ多くの釈迦族の青年を出家せしめたが、ラゴーラは7日目にして出家したという(律蔵・大品第1健度など)。


彼は母の耶輸陀羅に連れられ仏前に赴き、母から釈迦仏が父親だから「王位を継ぐので財宝を譲って下さい」というように言われ、そのようにすると釈迦は長老・舎利弗を呼び出家せしめたという説もある。
この時の彼の年齢も6歳・9歳・12歳・15歳という諸説があるが、いずれにしても沙弥(比丘となるまでの年少の見習い修行者)となったという。


年少の頃は慢心が強く、他の仏弟子を見下していたといわれ、仏より戒められることもあったという。
20歳にして具足戒を受け比丘となった。
舎利弗に就いて修行学道し、当初は仏の実子ということもあり特別扱いを受ける事もあったが、その分を弁えてよく制戒を守り多くの比丘にも敬われるようになったという。
彼は不言実行を以って密行を全うし、密行第一と称せられたが、釈迦仏より、多くの比丘衆でも学を好むことで、学習第一とも称せられた。

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